レトロ・タッチ

懐かしさから☆4個に。つい先日まで劇場公開されていたと思っていたら、はやくもAmazonPrime Videoに登場。なんということはない、レトロタッチの日本映画ではあるが、自分にとっては懐かしい、宇崎竜童他多数が出演しており、懐かしい。
レトロ・タッチ

懐かしさから☆4個に。つい先日まで劇場公開されていたと思っていたら、はやくもAmazonPrime Videoに登場。なんということはない、レトロタッチの日本映画ではあるが、自分にとっては懐かしい、宇崎竜童他多数が出演しており、懐かしい。
カント的・・・在るから見るのか、見るから在るのか

SFファンタジー。何も考えないで見たら???と思うのかも。しかしテーマは、カント「純粋理性批判」の世界観。存在するから認識できるのか、認識するから存在するのか・・・
ただし、この認識の逆転現象、つまり、「心の眼で見る」というテーマは日本人には馴染み深い。禅的な世界観がカントに通じるということかもしれない。
もちろん、そういう哲学的な背景をまったく考えずに作られた作品かもしれないが、少なくともそうした逆説的な認識世界に心を置くとふんわりいい気持ちになることもまた事実で、カントを意識せずにそこだけでもハート・ウォーミング。
一方で、英語タイトル The Invisibles は、社会科学的にが不可視化=見えないことにされてしまった人々という意味もあるので、見えないことで「無いこと」にされてしまっている存在を問題提起している・・・ちょっと考えすぎか
少し情緒的に過ぎるかな・・・
ハリウッド的な過剰説明映画の対極にあるような、説明の少ない、それでいて情感たっぷり。明確なストーリーがあるわけではないけど、別れを前提とした父親とむすめのバカンスが切ない。
「別れをはらみつつ思い出を作る親子」というテーマに弱いのは自分の人生の投射なのかも・・・。
純粋さの頑なさ・・・
人生のターニングポイントで流れに任せて生きてきた身にとっては、主人公の純粋さは何か後ろめたいものを追及されたような気になる。結局、孤独(ひとり)が人生の本質だと突き進んだ果てに、最後を前に「人生の幸福はそれを誰かと分かち合えること」という書置きに至り、至ったときには時すでに遅し。wiki
アラスカで発見された青年の遺体のドキュメンタリーをもとに作られたらしいが、途中の暖かさが不穏なものをはらんでいて、悲しい結末へと誘う。
書置きの「人生の幸福はそれを誰かと分かち合えること」というのが、後味を少しでもよくするための創作なのか、事実なのか気になるところ。
映画の最後にカメラに残っていたフィルムに写っていた実際の主人公の写真が出てくるのだが、YouTubeには「Into the Worldの真実」みたいな動画もあって・・・
宮崎県人には、たまらんちゃが!
75%宮崎ロケかつ宮崎弁ということで、永野芽郁ちゃんも大泉洋も見上愛も例の(しらないか)抑揚のない、なんとなく「雅び」ともとれるイントネーションでしゃべっちょるとよ。
売れっ子、少女漫画家・東村アキコさんの自伝的漫画の映画化。原作漫画のレビューでも書いたが、宮崎を離れて暮らすようになると「あっ」という間に宮崎のことを忘れてしまうという主人公が、まさに自分の感覚とシンクロしてしまう。
日向灘(太平洋)の砂浜、松林、なつかしい風景。ああ、遠くにありて想うもの・・・か。
永野芽郁ちゃんの文春スキャンダル報道でコケた!?のかよくわからないが、まあ宮崎県人は楽しめる。
2000年頃のTokyo
日本、東京という見知らぬ街に迷い込んだアメリカ人たちのそこはかとない恋?エトランゼであるがゆえに、喧騒の中の孤独ゆえに、魅かれあう。まあ、実らぬラブストーリーというよりは、見知らぬ街にドロップされた孤独感がよく出ていた。
一方で、その見知らぬ街が東京で、舞台が六本木のパークハイアット。六本木の病院に数カ月おきに通っていたことがあっていつもパークハイアットを通り抜けていたので、懐かしい。そこが異国だということで、日本人にとってはやや屈折した見方になるし、パロディ的日本人の描き方にいやな感じがしないでもない。まあ名作ではあります。
この映画を最初にみたのは、20年近く前か。スカーレット・ヨハンセン17歳。
シーラッハの本「午後」にこの映画が出てくる。
「自分が何者で、なにを望んでいるかを知れば知るほど、動揺しなくてすむようになる」 ビル・マーレイが映画『ロスト・イン・トランスレーション」でいう台詞だ。
これはソフイア・コッポラの二作目の映画だ。スカーレット、ヨハンソンは十七歳になったばかりだった。ビル・マーレイが本当に振影現場にやってくるかどうか定かではなかったらしい。私が知るもっともすばらしい映画のひとつは見事な台本と低予算で誕生した。マーレィとヨハンソン、年配の男性と若い女性は東京で右も左もわからない。ふたりは訳のわからない世界で孤独を味わい、 途方に暮れる。ふたりのすることはすべて、はかなく、思慮が足りず、無意味に見える。他の映画 監督だったら、このふたりを使ってロリータ風の物語を撮影しただろう。あるいはもっと悲惨な場合、深い内面について意味深長な物語を紡いだかもしれない。しかしソフィア・コッポラの映画はその対極だ。
悲しみは映画の中で完全に消えることがない。ちょうど実人生で決して消えることがないように。ところがこの映画で描かれた悲しみは軽やかで、温もりがある。信じられないほど滑稽でさえある。
全体に粗雑・・・
以前は、利害関係のない一般人がSNSで書く映画評はまあまあ信頼できたのだが、最近はいわゆる<案件>も入っているのか手放しでほめていて、「よし、それなら!」と見たところで「はずれ」というパターンも増えている。
この作品も評判がやけに良いのだが、そこには何かハリウッドにただよう反トランプ的な「孤立主義、白人至上主義、過激な移民政策が拡がる現代のアメリカを批判する」という見立てが加わっているような。
アメリカではトランプがらみで、移民税関捜査局(ICE)の執行官による発砲・射殺事件が相次いでおり、2026年7月にも東部メーン州で車両に乗っていた男性が射殺され、南部テキサス州でも出勤途中の男性が撃たれるなど、全米各地で抗議デモや論争が起きているわけで、それのパロディなのかな。いや、トランプ政権そのものがパロディ的で中学生的なので、そこに食いつく映画もそのレベルになってしまうというか。